先日の職員会議で、私から先生方にこのような話をしました。

皆さんは園児の保護者に対して、「提出物がいつも遅いルーズな親だ」とか、「いつも細かいことを言う人だ」、「子どもに対して過保護だ」等と、内心で「まったく・・・」と思ったことが一度ならずあるでしょう。
でもね。社会全体を見渡せば、本園の保護者層は極めてレベルが高いよ。世の中には我々が普段接することの無い、とんでもない保護者や家庭が存在するのは事実。だから本園のこれが普通、当たり前と思わずに感謝して臨まないといけませんよ。

近年マスコミ等で「貧困」とか「格差」という言葉を目にすることが増えています。もともと日本は諸外国と比較して、格差の少ない国でした。皆さまの中には「お殿様とお百姓さんでは、その違いは大きかったでしょう」という方もあるかもしれませんが、中世ヨーロッパに於ける王侯貴族と農奴(農民ではありませんよ。農業を強要される奴隷です)との格差は、日本のそれと比較すれば大きな違いがありました。例えば「レ・ミゼラブル」という映画やミュージカルをご覧になった方も多いでしょう。原作は19世紀の作家ビクトル・ユゴーによるもので、当時の庶民の悲惨な暮らしぶりや、過酷な運命を描いていますが、同時期(江戸時代後期)の日本の庶民にあの悲惨さはありません。
それは幕末期に来日した外国人の大多数が「日本人の暮らしは貧しいが、誰もが幸福そうにしている」と記録しているほどです。

話を現代に戻します。久留米市内で「子ども食堂」のボランティア活動をしている方々のお話を伺いました。その内容は、にわかには信じられない多くの現実がありました。今この時代に、日々のご飯を満足に食べられない、高校にお弁当を持って行けない子ども達が、この久留米にいるなんて・・・。
様々な事情があるにせよ生活保護に代表されるような社会的セーフティネットがあるのですから、金銭的に子ども達に食べる物を与えられない、ということがあり得るのでしょうか。私は中でも、そこで伺った子ども達の言葉が強く心に残りました。「コンビニじゃないおにぎりを初めて食べた」、「ペットボトルじゃないお茶を初めて飲んだ」、「麦茶ってヤカンでつくれるの?」等です。

家でおにぎりをつくる、お茶の葉を急須でいれる方が、コンビニのそれより単価は安いはずです。ということは、経済的事由ではなく育児放棄や、家事の放棄が存在するのでしょう。
ここには経済的貧困ではなく「心の貧困」があります。かつて「格差社会」という嫌な言葉が使われ出した頃、私は直感的に経済的な格差より、教育すなわちその人が受けた躾、経験、教養、なにより家庭での親子関係の質と内容が生み出す格差の方が、大きくなると思いましたが、それは間違っていなかったようです。どうかこれからも幼稚園と家庭が手を携え「心豊かな暮らし」を目指しましょう。