あらかじめお断りしておきますが、このタイトルは「父親の愛、父親の教育」ではありません。時には母親が父性的な愛を示すこともあるでしょうし、父親が母性的な育み方をすることもあるでしょう。あるいは、一人の親が、両方の特性をもつことだってあるかもしれません。ともあれ・・・

母性愛が「慈愛」で包み込むようなものだとしたら、父性愛は「公(おおやけ)」ということを意識したものではないかと思います。公とは「世の為、人の為」ということです。
私は「一家の教育は、その家族の為のものではなく、社会の為に施すものだ」という考え方に共鳴します。
例えば「社員教育」。普通は社員を教育して、もっと生産性を上げるなど、より会社の役に立つ人材となるよう実施するものかもしれませんが、前述したように「一家の為ならず」だとしたら、単に社員のスキル向上を目的とするのではなく、人として、あるいは社会の構成員として有意な人物を育成することも大事な要素となると思います。
本園の事例で恐縮なのですが、一般に幼稚園の先生方が受ける研修とは、保育技術に関する内容が多いのですが、私はそれよりも人間的な成長を期待する研修内容に、より多くの時間と予算を配分するようにしています。何故なら「先生」である前に、人として立派な人間になって欲しいからです。
父性というテーマに話を戻せば、「世の中、非合理(不合理)は、当たり前」ということを教えるのも父性の愛であり、教育だと思います。10の努力が10の結果に繫がらないのが世の中です。また、その努力の方向性が誤っている場合もあるかもしれません。

昔、一人の苦学生がいました。貧しい家の子ですから、大学では奨学金を受けなければ勉学を続けることが出来ません。ところが、成績優秀者しか奨学金を受け取れない制度になっているため、他の学生の成績(点数)が気になって仕方がありません。「あいつが80点なら、俺は90点とらなくては」というふうに。ところがある日、彼は気が付きます。「なんだ全教科100点をとれば、他人の点数なんか気にする必要はないのだ」と。
その後彼は、世界的にも有名な学者になりました。
私が申しました「努力の方向性」とは、このようなことです。

父性の教育の要は、「勇気」と「忍耐」を教えることではないかと思います。
また父性を示すとは、「僕も(私も)ああいうふうに生きたい」と思う、生き方を示すことだと思います。「ああゆうふう」とは、誰かの為に自分の時間(命)を使うことです。
「今日私は、8時間働きました」という言葉は、「今日私は、8時間分の私の命を使いました」と同義なのです。
誰かの為に自分の時間(命)を使うのは「カッコイイ」と子ども達が思えたら、素敵ですね。そんな「カッコイイ大人」が子ども達の身近に沢山いて欲しいものです。