明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

私事ですが、私にとって四人目となる孫が間もなく一歳になります。同じような年ごろの赤ちゃんがいらっしゃるご家庭もあるでしょうし、園児さんが赤ちゃんだった頃の記憶も、まだ鮮明に残っていると思います。

赤ちゃんを見て思うのは、第一にその有無を言わさぬ可愛らしさもありますが、その次には、「この子は何だって出来る。何でも好きなことを、好きなだけやって、何にでもなれる」という、無限の可能性を感じることが出来ます。

幼稚園時代も程度の差こそあれ、同じような感慨をもつことが出来ます。可愛らしさも全開のままで、言葉が豊かになってくるだけ、これからどんな成長を見せてくれるのか、保護者の楽しみや、期待が膨らむ一方だと思います。

ところがその後、小学校・中学・高校と進むにつれて、親の期待と裏腹に我が子の現実面がクローズアップされてきます。一般的にはこのあたりで「無限の可能性」など口にするのも憚(はばか)られるような気がするものです。でも本当に、そうでしょうか?

 

卒園後、ずっと大きくなった子ども達に、こう伝えて下さい。

「小さかった時のあなたは、何でも出来る、何にでもなれる希望の塊のように思えたの。その頃のあなたの様子は、今でも鮮明に覚えている。

その希望の塊が十数年経って、いろんな成功や失敗、挫折や達成を繰り返した後の姿が、今のあなた。そんな経験を積んだあなただから、生まれたての赤ちゃんより、もっと何だって出来る、無限の可能性をもった塊だよ」

 

年頭にあたり、このような文章を書きたくなったのは、先月凶弾に倒れた故・中村哲先生のことがあったからです。2001年に出版された「医者井戸を掘る」を読んで以来、中村先生の活動を覚えるようになりました。先生の活動を支援する「ペシャワール会」に対する募金も、本園の「かわいいお店屋さん」が始まった初年度から続けています。

今回の悲しい報道によって、中村先生の活動は広く世の中に知れ渡りました。「こんな活動をしていた人が、日本にいたんだ」と、初めて知った人も、多かったのではないでしょうか。

中村先生は「照一隅」をモットーになさっていたそうです。天台宗のHPによれば「伝教大師(最澄)が日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへと導くために『一隅を照らす。これ国の宝なり』と諭された」となっています。そして、一隅とは「今あなたの居る場所」という意味です。

 

本園では開園以来「お誓いの言葉」として、いまに おおきくなったら すこしでも

よのなかのために よいことをするひとに

なります と、唱えています。子ども達が将来そのような人になるために、心の奥底にいつまでも刻まれるよう、これからも力強く毎朝唱和して参ります。