ご入園、ご進級おめでとうございます。本年度も、この拙稿にお付き合い下さいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

私事ですが今年一月、長女に第一子、私ども夫婦にとっては四人目となる孫(女児)が誕生しました。
どの子もそうですが、生まれて来た時、特に初めて抱いた時の印象は「赤ちゃんって、こんなに小さかったっけ?」というものです。しかし、身体は小さくても、その存在自体はとても大きなものがあります。
また存在の大きさより、もっと大きなものは、両親はもとより家族親族に与える喜びで、その大きさは、計り知れません。

幼稚園の先生方や、幼児教育の道を志す学生さんに、「人は喜ばれる為に、この世に生まれてくる」と、よくお話をします。「君達が生まれた時、君達のご両親をはじめとする多くの人達が、大喜びしたんだよ。だから、この一点だけをもってしても、『人は喜ばれる為に、この世に生まれてくる』という話は、納得出来るでしょ?」と。
たまに少々ヘソ曲がりが居て、「しかし、世の中には悪いことをしたり、犯罪をする人もいます。そんな人は、人を悲しませるためにこの世に生まれて来たのではないですか?」と反論されることもあります。
そんな時は、「君は『よーし、大きくなったら悪いことをしてやるぜい』という顔つきの赤ちゃんを見たことがありますか?多分、世界中でそんな赤ちゃんを見た人は、一人もいないでしょう」と答えます。
純粋無垢な赤ちゃんが成人して犯罪者になったとしたら、育った環境か、過ごして来た環境から悪い影響を受けた、ということなのです。だから子どもには家庭や、その後の環境が大切だ、ということになるのですが、そんなのは当たり前過ぎて、ここで申し上げる必要もありません。

話は変わるようですが、仕事の目的は何でしょう?答えは唯ひとつ「お客様に喜んでもらう」ことですね。
そうすると「生まれて来た目的」と、「働く目的」は、相手や周囲の人に喜んでもらう、ということで一致する、または殆ど重なると言えると思います。
また私は、本園の先生方にこんな話もします。よく「私は今日8時間働きました」とか、「私は今日一日働きました」などと口にするけど、それは「私は幼稚園で8時間(一日)分の命を使いました」という意味なんだよ。では、その消え去った「8時間(一日)分の命」は、何に替わったの?その答えが「8時間(一日)分のお給料」じゃ、淋しいよね。 だからこう考えてみては、どうだろう。使った私の今日一日の命は「誰かの喜びの記憶」に替わった、と。本園の先生方は、皆この話に共感共鳴してくれています。

これから始まる一年間。先生方は、各人の一年分の命を園児さんと、保護者の皆様方の「喜びの記憶」になるよう使って参りますので、受け止めて下さい。お願い致します。