久留米あかつき幼稚園と、その姉妹関係にあるフジタバレエ研究所は、今年創立七十周年を迎えました。つまりこの二つは、昭和24年に同時に産声をあげたことになり、この二施設の物語は、ある一人の男の物語でもあります

彼は明治41年に福岡県浮羽市(現うきは市)の農家の五男三女の末子として生まれた。子どもの頃から歌舞音曲が好きで、村の盆踊りなどではひと際目立つ存在だったらしい。櫓(やぐら)の上で踊る彼の姿を、乙女らが憧れをもって見つめていたという証言を、元乙女の老婆から聞いたことがある。
当時、家督を継ぐのは長男と決まっていたから、八人兄弟の末っ子には僅かなおこぼれも期待出来る訳もなく、大正時代の末期には自ら生きる(というか、食べていく)道筋を求めねばならなかった。
そこで16才になった彼は、検定試験を合格し小学校代用教員(教員とは名ばかりで、実体としては小使いさんに近い)として近隣の尋常高等小学校に勤務した。
数年間の勤務体験により、いつまでも代用教員の身分ではどうにもならないし、元々好きだった音楽の勉強も深めたいという情熱を抑えられず小学校を休職し、昭和10年に当時は「帝都」と呼ばれていた東京に単身出て行くこととなった。
東京では東洋音楽学校師範科に通う傍ら、我が国バレエ界の草分けである高田せい子氏に師事し、初めて洋舞を学んだ。
東京での学びを終えて帰郷し、地元の小学校に正式な教員として勤務していると、中国の日本人学校から「音楽や遊戯に詳しい教員を派遣されたし」という要請があり、彼が赴任することになった。当時の田舎教師にとっては、大抜擢だったことだろう。
中国では青島の国民学校に勤務し、その頃に青島統税局にタイピストとして勤務していた日本人女性と結婚もした。
その当時の小学校男性教員は、高学年のクラスを受け持つことを望み、次に管理職を目指すのが当たり前だったが、彼は好んで低学年を受け持ちたがる変わった存在だったそうである。

小学校勤務体験から「子どもの教育は小学校からでは遅い。就学前の教育が大切だ」との思いと、戦災孤児・欠食児童などという言葉が普通に口にされていた時代背景にあって、彼は木製足踏みオルガン1台と、僅かな机椅子だけで幼児を収容する施設を開いた。
彼は「人間性の陶冶こそ教育の要諦である」として、教育実践も心の教育に重きを置いていた。同時に「文化芸術のみが豊かな情操を育む」と主張して舞踊研究所も開設し、昼間は子ども達にバレエを、夜には成人を集めて日本舞踊を教えた。
また彼は「幼児はたとえ幼くとも、けして幼稚ではない」として「幼稚園」という名称を嫌い、最後まで「幼児園」と呼称した。

昭和57年に没したこの彼の名は藤田貞雄といって、久留米あかつき幼稚園とフジタバレエ研究所の創立者です。