皆さんは、フェースブックというものをご存知でしょうか。インターネット上の限定されたメンバーによる「掲示板」のようなものです。私は基本的にパソコンとか、ネットなどに関して苦手なのですが、それでも自動車の運転免許と同じで、「それが無くても生きてはいけるが、あればあったで便利なもの」であり、なおかつ社会生活、または仕事上で必要とあれば、最小の範囲内で積極的に(?)手を出すようにしています。
そのフェースブックなのですが、最初に自分の本名や出身校、現在の仕事などを公表します。すると高校や大学の名前から、「この人と知り合いではありませんか?」と、パソコンの方から尋ねてきて、思いがけず数十年ぶりで消息を知った旧友との再会(パソコン上ではありますが)というケースが、私にも何度もありました。
ちなみに「久留米あかつき幼稚園」としてのフェースブックも公開しており、ほぼ毎日写真などをアップしていますので、ご興味のある方は是非ご覧下さい。

さて、フェースブックにしても、携帯電話にしても便利な道具です。考えてみれば人類の歴史とは、道具の発明とその利用によって快適な生活を得たり、文化や文明が発展してきたりした訳です。しかし「道具」には便利な部分と、人を傷つける危険な部分の二面性があります。
例えばナイフは、ハサミや包丁と同じくこれが無ければ、普段の生活は不便で仕方がないでしょう。新しい道具でいえばパソコンは、調べものをしたり、統計表を作製する際に今や欠かせないものとなっています。
しかし刃物による怪我や、傷害事件が絶えることはありませんし、無責任なメールによって人の心を傷つけることもあります。したがって、道具は便利なものであるという言葉を正確に表せば、「正しい使い方をする限りにおいて、道具とは便利である」となるのではないでしょうか。
そこまで難しく考えなくても、子どもがナイフや包丁を持つと、親は「間違った使い方をすると危ないからね」と、くどいほど注意しますよね。その危険性を十分に理解しているからです。

そこで知識や、知識を得るための「勉強」も道具のひとつと考えてみたら、どうでしょうか。「地下鉄サリン事件」をもち出すまでもなく、知識が人を傷つけた例は、沢山あります。時として「勉強ばかりしていたから、そんなことをする人になるんだ」という極論も出ますが、そうすると毎日包丁を持っている主婦や、料理人は危険人物となる可能性が高いと言えるのでしょうか。
勉強という道具を子どもが身につけようとする時に、親は間違った使い方があるなど想像も出来ません。勉強をしている限り安心だ、とすら思うものです。
知識も勉強も、何のために使うのかを決めるのは「心」です。小学校に進んで本格的な勉強が始まる前の幼稚園時代に、正しい使い方を判断出来る「心」を育てる意義が、ここにあるのです。