明けまして おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。新年早々、私の拙文をお読み頂くより、最近私の心に強く残ったお話を紹介しますので、ハンカチの用意をお願いします。

坂本さんは、食品加工センターに勤めています。牛を殺して、お肉にする仕事です。坂本さんはこの仕事がずっといやでした。
牛を殺す人がいなければ、牛の肉は食べられません。だから、大切な仕事だということは分かっています。でも、殺される牛と目が合うたびに仕事がいやになるのです。「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。
坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、その日は用事があって、どうしても行けませんでした。そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。

いよいよ、参観日がやってきました。「しのぶは、ちゃんと手を挙げて発表できるやろうか」坂本さんは、期待と心配を抱きながら小学校の門をくぐりました。
授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの仕事を知っていますか?」「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。
しのぶ君の番になりました。坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事についてあまり話したことがありませんでした。何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さな声で言いました。
「肉屋です。普通の肉屋です」
坂本さんは「そうかぁ」と、つぶやきました。

坂本さんが家で新聞を読んでいると、しのぶ君が帰ってきました。「お父さんが仕事をせんと、みんなが肉ば食べれんとやんね」 何で急にそんなことを言い出すのだろう、と坂本さんが不思議に思って聞き返すと、しのぶ君は学校の帰りぎわ、担任の先生に呼び止められて、こう言われたというのです。
「坂本、何でお父さんの仕事は普通の肉屋ですて言うたとや?」
「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん。血のいっぱいついてからカッコわるかもん」
「坂本、おまえのお父さんが仕事をせんと、先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。すごか仕事ぞ」
しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に「お父さんの仕事はすごかとやね」と言いました。
その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し、仕事を続けようかなと思いました。

ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが、事務所で休んでいると、一台のトラックが食肉センターの門をくぐってきました。荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。
坂本さんが「明日の牛ばいねえ~」と思って見ていると、助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。
坂本さんは、「危なかねえ」と思って見ていましたが、しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。

みいちゃん、ごめんねぇ。
みいちゃん、ごめんねぇ。
「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの言わすけん。みいちゃんば売らんとみんなが暮らせんけん。ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ」そう言いながら、一生懸命に牛の腹をさすっていました。坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、坂本さんに頭を下げました。

「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。だけん、ずっと、うちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。明日は、どうぞよろしくお願いします」
坂本さんはまた、「この仕事はやめよう。もうできん」と思いました。そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。

坂本さんは家に帰り、みいちゃんと女の子のことを、しのぶ君に話しました。「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、明日は仕事を休もうと思っとる」そう言うと、しのぶ君は「ふ~ん」と言ってしばらく黙った後、テレビに目を移しました。

その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君一緒にお風呂に入りました。しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。「お父さん、やっぱりお父さんがしてやった方がよかよ。心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、それでも決心は変わりませんでした。

朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。
「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。その直後、玄関がまた開いて「お父さん、今日は行かないかんよ!分かった?」と、しのぶ君が叫んでいます。坂本さんは思わず「おう、わかった」と答えてしまいました。その声を聞くと、しのぶ君は「行ってきまーす」と走って学校に向かいました。「あ~あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」と、お母さん。坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事に出かけました。

会社に着いても気が重くて仕方ありませんでした。早く着いたので、みいちゃんをそっと見に行きました。牛舎に入ると、他の牛がするように角を下げて、坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。
坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、最初は威嚇していたみいちゃんも、次第に坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。
坂本さんが「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきました。
それから坂本さんは、女の子がしていたように腹をさすりながら「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」と言い聞かせました。

牛を殺して解体する、その時が来ました。坂本さんが「じっとしとけよ、みいちゃん。じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは、ちっとも動きませんでした。
その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。
そして、坂本さんがピストルのような道具を頭に当てると、みいちゃんは崩れるように倒れ、少しも動くことはありませんでした。普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれることがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。

後日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、しみじみと言いました。「坂本さん、ありがとうございました。きのう、あの肉ば少しもらって帰って、みんなで食べました。孫は泣いて食べませんでしたが『みいちゃんのおかげで、みんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。みいちゃんに、ありがとうと言うて食べてやらな、みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ』って言うたら、孫は泣きながら『みいちゃん、いただきます。おいしかぁ、おいしかぁ』て言うて、食べました。ありがとうございました」

坂本さんは、もう少し、この仕事を続けようと思いました。

出典「いのちをいただく」内田美智子・文
西日本新聞社・刊