先ずもって、熊本県を中心とする地震により被災されている多くの方々にお見舞いを申し上げますと共に、お亡くなりになられた皆様に心より哀悼の意を表します。

 

会議や研修会のため、電車やJRを利用することが時々あります。そのたびに、「本を読んでいる人がいない」と愕然とします。私は中学校と高校の六年間、福岡まで電車通学していました。その頃、電車に乗っている大人達は、眠っている人以外、殆どの乗客が本か雑誌、または新聞を読んでいたように記憶しています。私も六年間電車に乗っている時間に英単語の一つでも覚えるようにしていたら、もう少し違う大学に進めたかもしれませんが、もっぱら読書の時間に充てたおかげで、東西のいわゆる「名作」とか「古典」と呼ばれる作品の過半を、その当時に読破することが出来ました。

 

今電車に乗っている人の大多数が携帯(スマホ)を触っています。メールかライン、それともFB(フェースブック)でしょうか。ゲームをしている人も少なくないようです。

他人のすることに口出しする必要も、権利もありませんが、私が英単語を覚えず、読書にふける年数を過ごした結果、私の人生の何がしかが変わったように、車中の過ごし方の違いで、何かが変わり、その違いに気付いた時は、「もう遅い」ということがあるのではないかと思います。

 

ここまで申しますのも、私自身がある変化に気付いたからです。

今年になり、私は思うところあって自分のスマホからFBの機能を削除しました。事務所のパソコンで朝晩二回も閲覧すれば、用は済みます。変化したのは、スマホに触る回数、時間が圧倒的に少なくなったことです。FBの新しい記載や、私が書き込んだことに対する反応を気にすることがなくなると、自然に他の新着ニュース等にも余り興味がなくなりました。

だからと言って、バリバリ仕事をするようになった訳ではありませんが、スマホを手にする前の生活スタイル(例えば、久留米~福岡の電車の往復で一冊の本を読み終える等)に戻ったことだけは確かなようです。

もっともそのせいで、メールや着信に気付かず、返信が遅くなってしまう弊害も時にはありますが、それでも重大な支障をきたしてはおりません。

 

確かにスマホは便利です。このたびの地震に関しても速報を知ることが出来ましたし、ホークスの試合経過も、ほぼリアルタイムで分かります。

ただスマホは、次の二つを奪い去ります。それは「考える」ことと、「感じる」ことです。スマホからは情報が溢れ出てきますが、私達は一方的に受け止めるだけで、自発的に考えることがありません。スマホから感じるという方もあるかもしれませんが、感じるとは見るだけでなく、五感を通じて感応するものです。「考える」と「感じる」は、幼児にとっても、人間形成の重要な基礎となります。