四月のクラス懇談会の席上で申し上げました通り、今年は大規模な園舎の工事が行われる関係上、夏休みを例年より十日間繰り上げます。皆様方には何かとご迷惑や、ご不便をお掛けしますが、「何十年に一度」のことです。何も無かった所に新しい建物が出来て行く様子を、子ども達は日々目にすることが出来たり、「はたらく車」を間近で観察出来る好機とお考え頂きたいと存じます。

さて、夏休みに入るとすぐに三階建ての本館(おひさまの部屋)の取り壊し作業が始まります。昭和38年に完成した本園創立時からの建物です。昭和32年生まれの当時の年長児(私もその一人ですが)は、第一回卒園式だけこの園舎を用いることが出来ました。
当時、鉄筋コンクリート造の幼稚園は大変珍しかったということです。創立者の藤田貞雄先生の脳裏には、久留米市内の多くが被害を受けた昭和28年の筑後川大洪水の記憶が刻まれていて、また洪水が発生しても流されない園舎、子ども達の生命を守る園舎ということがコンセプトだったのです。しかしその分、建築費は高額となります。
昨年逝去した藤田三保子学園長は、当時このような短歌を詠みました。「漸くに形成りゆく吾が園舎大口融資のあて未だなく」、「金借りの才に乏しき夫と吾慰め合ひて寝につきたり」
建築工事は進んでいるのに、その代金支払いの目処がたたない、経営者として辛い心境です。 そのあたりについては、私も遺伝しているようで「億円単位の借入」を考えると、気が遠くなる思いがします。そんな時は「でも、やらなければならない」、「子ども達の安全、安心には絶対に必要」と、自分に言い聞かせ鼓舞しています。

昭和55年の春、私は大学を卒業し本園に就職しました。当時はこの三階建て園舎と、工事現場の管理事務所に使われるようなプレハブの教室しかありませんでした。勿論、当時はエアコンなど無く、年長のお泊り会などでは、寝苦しがる園児を先生方が一晩中うちわで扇いであげていたものです。
冬季は石油ストーブの上に水を張り、牛乳ビンを入れ、更にその上にお弁当を載せて温めていました。しかも午前の保育中に、そのお弁当箱を上下入れ替えて、どの子のお弁当も満遍なく温まるよう、細やかな配慮がなされていました。
その後、おそらの部屋、おやまの部屋、そして平成新館と次々に増築されましたが、この三階建て本館も、引き続き子ども達を育む役割を果たしてきました。でも、ついにお別れの時が近づいて来ました。
六千三百余名の卒園児、先生方、保護者の皆様の笑顔、歌声、汗そして涙がしみ込んだ建物です。よろしければ最後に、壁に手をあて「永い間、ご苦労様でした」と、ひと声かけてあげて下さい。また一枚写真にも収めて下さい。この園舎でお子様が保育を受けた、最期の皆様なのですから。