既にご案内の通りに、私の母でもあった藤田三保子学園長が、四月末に他界しました。なおその節には、多くの保護者の皆様方よりご弔意をお示し頂きました。この場を借りましてお礼を申し上げます。
満九十四歳でしたから、天寿を全うされましたねと、お慰めのお言葉も沢山頂戴致しました。それだけ永い年月を、家族として共に過ごしてこれたということ自体が、有り難いことだったのだ、と改めて思いました。
亡母の「お別れの会」を催すにあたり、短歌を詠むのが趣味であった母の作品集を何度も読み返し、また古いアルバムをめくりました。
あの当時はこんなことを感じていたのか、と思い当たる出来事や、その頃の家族の雰囲気を思い出したり、私が生まれる前につくられた短歌や、結婚する前の写真を見て、当時の母の心境に思いを馳せました。
家族の思い出・・・。それはアルバムが焼けようと、転居しようともいつまでも心の中に残り続けます。そう考えますと、親として子どもに残してあげられるものは、財産や家屋などではなく嬉しい記憶、楽しかった思い出、そういったものではないかと思わざるを得ません。
一般に動物は、その生殖期間が終了すると、その後短い期間の内に生命を閉ざします。生まれ故郷の源流を遡り、産卵を終えるとすぐに死んでしまうサケなどはその典型です。
しかし人間だけは、繁殖期を終えてもその何倍かの余生があります。ある先生はそれを「人は親としての生き様を、子に示し続けるための時間が与えられている」と解釈されました。そうであるとすれば、私達は日々どのような「生き様」を、子ども達に見せているのか真剣に考えなければなりませんね。
さて私達は、おぎゃーと生まれてから平均で八十数年の寿命を与えられています。言い方を変えれば、生まれた瞬間から与えられた持ち時間を、日々刻々と費やしているのです。例えば私達が「今日も八時間働いた」と言ったとしたら、それは「今日、私は八時間の命を使った」ということなのです。
ではその「八時間の命」を何に、何のために使ったのでしょう。「お金を得るため」では、ちょっと淋しいですよね。出来ることであれば、今日の私の八時間が誰かの喜びの記憶として残っていく、そんな確信が持てる時間の過ごし方であれば、悔いも無く、惜しいとも思わないものではないでしょうか。
まして親の立場であれば、我が子の為に自分の人生の持ち時間を使うことに抵抗を覚える人はいないでしょう。更にその時間が、子どもにとって「喜びの記憶」として残り続けるとしたら、これ以上の望みは無いと思います。
先月私は、生まれて初めて母親のいない「母の日」を過ごしました。子ども達にとって今年の「父の日」は、どんな記憶が残る父の日になるのでしょうか。